金子昌子の原点 阿蘇神社
- kujakuhanamasakobl
- 2月15日
- 読了時間: 3分
更新日:2月17日

家の庭に古墳があるほどの旧家
昌子の父・佐伯広喜は、現在の阿蘇市小野田(旧、阿蘇郡阿蘇町 大字小野田)の旧家の生まれでした。そこは、家の庭に古墳があるほどの歴史と伝統のある家でした。広喜は3人兄弟の2番目で、営林署勤めなど林業関係の仕事を永年勤めておりました。
金子昌子が描く花に、牧野富太郎博士の間接的影響
NHKの朝の連続ドラマ「らんまん」(2023年前期)で、牧野富太郎博士が地方の森林関係者に植物採集の手伝いを依頼する場面がありましたが、阿蘇地方で牧野博士の手伝いをしていたのが、佐伯広喜でした。広喜の自宅には、採集した植物の標本がたくさん置かれていました。植物標本は、採取したその日のうちに泥除け処理をして紙に挟むなどの処理を迅速に行わなくてはなりません。広喜の書斎には、それ専用のテーブルがあり、「これに触ってはいけないよ」と言われていたことを、二人の孫娘(金子昌子の娘)が覚えています。
昌子のデッサンには紫陽花・百合・コスモス・カラーなど多くの「花」が残されていますが(その数は数千枚!)、そこに驚くほどの繊細な観察眼を垣間見ることができます。そしてそれは、広喜が集めていた「押し花」のような植物標本と重なります。

金子昌子の原風景・阿蘇一の宮町宮地
昌子の父・広喜の営林署の仕事は転勤があったらしく、大分県玖珠郡の森(豊後森)、南阿蘇の久木野村などを回り、再び戻ってきたのが一の宮町宮地でした。戸籍によれば、昌子は豊後森で生まれたことになっていますが、昌子自身は豊後森も久木野村も記憶になく、一の宮町宮地が原風景だったようです。その場所は、一の宮小学校の南側の住宅地であったろうと推測されています。
阿蘇神社境内と金子昌子
金子昌子には兄が2人おり、昌子を含めて3人で阿蘇神社の境内に遊びに行くことも多かったそうで、昌子は落ちていた木の枝で、境内の地面に鳩の絵を描いていたそうです(現在では境内は玉砂利ですが、当時は土でした)。すると、兄たちから、「まさこ、ハトの絵が上手だね」と褒められていたそうです。褒められることが嬉しくて、昌子はますます絵を描くことに深入りするようになりました。
これは昌子が7,8歳の頃のエピソードです。二人の兄は小学生だったでしょう。このころ昌子の母は病床に臥せっており、昌子が9歳の時、亡くなってしまったのです。その前後、昌子は寂しさを紛らすためか、ますます絵を描くことに没頭してゆきました。
阿蘇神社の境内は、金子昌子の絵の原点なのです。
阿蘇神社への昌子作品の奉納が叶う
2024年11月、阿蘇神社に昌子の第1期の名作「華麗なる競演」が収められました(奉納)。阿蘇神社の本殿に向かって左側(南側)に神徳館がありますが、さらに左側(南側)の斎館の玄関に、それが飾られています。
この作品は、『芸術グラフ』第5巻6号(通巻32号)、1984年7月号で紹介され、美術評論家・森田文雄氏によって評価された逸品です。昌子のごく初期の作品に「華麗なる闘魂」がありますが、「闘魂」よりも「競演」は情念が抜けて穏やかさを獲得していったものです。第2期につながる作風を留めた作品だと言えるでしょう。

Comments